理事長室から 理事長室から

Vol.2

―建学の精神「実学」とは 越後の歴史から考える①―

<ブランド戦略の検討が大詰め>

いま、新潟青陵学園では学園の「ブランド戦略」を考えるプロジェクトチームの検討作業が大詰めに差し掛かっている。この作業は、昨年お亡くなりになった関昭一元学園理事長と諫山正元常務理事の指示を受けて昨春から始まったものだ。これまでわが学園では幼稚園から大学・大学院まで、それぞれの理念やミッションは明確になっていたものの、学園全体としてのブランド力をもっと強化する必要があるとの問題意識からプロジェクトがスタートしたのだと認識している。メンバーは入試広報課長をチームリーダーとして、教職員合わせて15人のメンバーが検討を重ねてきた。

私も遅ればせながら2月14日と16日の2回、検討チームの議論に参加させてもらった。まず実感したのは、教員と職員が一体となったチーム力の素晴らしさだった。幼稚園副園長から高校教諭、短大・大学の教員が一堂に会して、職員チームと共に議論を積み重ねていた。検討チームはこれまでの議論を中間報告にまとめ、いよいよ年度末に向けて仕上げ作業に入っていた。本学園のブランド戦略を構築する上で最も重要な土台が「建学の精神」だろう。ご承知の通り、本学園の建学の精神は「日進の学理を応用し、勉めて現今の社会に適応すべき実学を教授する」である。14日の議論でも「実学」の言葉が何回か登場したし、検討作業で練り上げた本学園の「ブランドの特徴」の中にも「時代に合った実学を提供」の文言が盛り込まれている。ただ、「実学の定義」については、この日の意見交換でもいくつかの見方が示された。

そこで私も過去に学んだ「越後の実学の歴史」について若干発言し、16日の会合の時には記憶を整理してもう一歩踏み込んで意見を述べさせてもらった。さらにその後、私が新聞記者時代に書いた記事などにも当たって「越後の実学の流れ」を江戸時代に遡ってメモにまとめ、プロジェクトチームのメンバーにお渡しした。今後、チームが仕上げてくれる報告書を理事会などで検討する時期を迎えるに当たり、メモを文章化してみたので皆さんに紹介したい。「越後の実学」は江戸時代から一本、大きな筋が通っていたことが確認できると思う。

「朱子学」より「折衷学」 ―江戸時代の暮らしを支える―

<江戸時代の公認学問は「朱子学」>
「越後の語り部」ともいうべき郷土史家、井上慶隆さん(新潟大名誉教授)によると、武士が統治していた江戸時代の公認学問は「朱子学」だったそうだ。朱子学は「武士とはこうあるべき」「こう生きるべき」の言わば「べき論」であり、朱子学の拠点は「藩校」だった。藩校は地域の拠り所であり、今も地域の藩校を誇りにしているところは少なくない。しかし、江戸時代の越後はかなり趣を異にしている。

<小藩乱立させられた越後>
越後を治めていた上杉家は景勝の時に越佐を統一したが、その後、上杉家は羽柴秀吉により会津に移封される。江戸時代の初め、越佐を統治したのは徳川家康の六男、松平忠輝だった。伊達政宗の娘・五郎八(いろは)姫を妻とした忠輝は高田を居城とし、金山のある佐渡は家臣の大久保長安に経営を委ねた。天下取りに野心のあった伊達政宗の婿殿と、日本を動かすほどの財力の源となる佐渡金山との取り合わせは、徳川幕府にとってあまりにリスキーだったようだ。長安は「謀反の企てがあった」として死後に告発され、遺子は全員死罪となった。忠輝も「乱行」の咎をとどめられ、改易のうえ流罪となる。徳川家はその後、佐渡を天領とし、越後は分割して統治することを決めた。これにより、江戸時代の越後は小藩が乱立することになる。それも外様の隣には譜代・親藩を配置するなど、相互監視体制を敷いた。その結果、統治者の責務となる治水などの大事業に手がつけられず、殖産などの暮らしを支える取り組みも不十分だった藩が多かった。井上さんはそのことを「名君賢臣のいない越後」と言う。

<暮らしを良くする学問「折衷学」>
その結果、越後では藩校の存在感が他地域より希薄になり、朱子学の浸透度が弱かった。そこに台頭したのが「折衷学」だった.「折衷」とは、折衷案の言葉に示されるように「足して2で割る」ような中途半端の印象があるが、実は「人々の暮らしを良くするため、色々な学派の良いところを折衷していく学問」だったようだ。人々の暮らしを良くするためには、統計的知識が必要となり、算盤・算術も必須であった。この折衷学は、「名君賢臣がいない越後」にあって、農村部では庄屋・名主、新潟湊のような地域では町人衆から支持された。その頂点に立つのが「長善館」(旧吉田町・門人に「新修漢和大字典」の小柳司気太ら」や「三余堂」(柏崎・孫弟子に「大漢和辞典」の諸橋轍次ら)だ。折衷学派の有名人・亀田鵬斎は「異端」として江戸を追われ、良寛を訪ねて越後を訪れる。越後は折衷学の拠点だったのだ。

<新田開発は庄屋が主導> 
その結果、江戸時代の越後にどんな変化が起きたのだろうか。江戸中期から越後では多くの地域で新田開発が始まる。その動きを主導したのは殿様ではなく、「庄屋・名主」や、宮川四郎兵衛(柏崎)に代表される「新田師(今でいうとゼネコンか)」だった。越後の新田開発の代表的なものとして塩津潟(紫雲寺潟)干拓や、新川掘削などが挙げられるが、それらの大半は殿様主導ではなかった。越後では、治水や殖産まで権力者ではなく豪農や町人が担っていた。しかし、干拓などの許可を得るには殿様や江戸幕府の許可がいる。とりわけ越後では、入り乱れる諸藩との折衝が厄介な関門で、その折衝には武士たちとも議論ができる「学問」が必要だった。井上さんは言う。「良寛さんを支えた名主らは、風流で歌を詠んでいた訳ではない。算盤・算術だけでなく、武士階級にバカにされないよう、懸命に教養を身につけようとしていたのだ」と。

<新潟湊に根付いた町人自治>
一方、町人衆はどうだったのだろう。新潟湊は江戸初期から長岡藩領となるが、湊経営のノウハウのない長岡藩は湊からの上り(税金)が大事なので、町人衆に新潟湊の経営を委任した。これが新潟湊の「町人自治」である。新潟湊には長岡藩の奉行所のほかに町人衆が主導する町会所が設置され、湊の運営のほか、軽微な犯罪の取り締まりも担当した。今の第四北越銀行本店付近に置かれた町会所の前には、権力の証である高札を立てることが許されていた。その新潟湊で長岡藩の奉行たちが町人衆に追い出されたことがある。飢饉などで不景気だった明和5(1768)年、長岡藩が御用金(税金)を重くしたことへの対抗策を話し合っていた涌井藤四郎らの動きを「不穏な企て」と見て長岡藩が逮捕・投獄。これに反発した町人衆が蜂起し、長岡藩奉行らは逃亡。涌井藤四郎ら町人衆の手で2か月にわたる「町人統治」を実現した。その後、長岡藩の懐柔策によって蜂起は抑えられ、リーダーの涌井藤四郎らは長岡に弁明に赴いた際に捕らえられ、のちに新潟湊て岩船屋佐次兵衛とともに打ち首・獄門となる。新潟湊の町人衆は2人を「明和義人」として密かに顕彰した(明治維新政府の世になってようやく公的に顕彰されるようになる)。これを「パリコミューンに先立つこと1世紀の市民蜂起」と呼ぶ研究者もいるほどの大きな出来事だった。

<抜け荷事件で新潟湊は天領に>
それから70年ほどたった天保時代、新潟湊は2度にわたる抜け荷(密輸)事件の舞台となる。主役は薩摩船で、琉球を手にした薩摩は琉球を通じて当時の清王朝との交易ノウハウを覚え、「唐物貿易」を常態化させていた。中国本土―琉球―薩摩―本州日本海側―蝦夷と伸びる唐物貿易の中継地として新潟湊は重宝がられ、常習的な国際交易の拠点となっていたようだ。その傍証として、当時の新潟湊では唐物の光明朱や薬種、織物などが「日本一安い値」で取引されていたという。「鎖国」が建前だった江戸時代でも、新潟湊はおそらく世界とつながっていたのだろう。

<摘発した本人が「初代奉行」に>
それが幕末、時代情勢緊迫化の中で江戸幕府が薩摩船の抜け荷を摘発したのだ。抜け荷に関与した新潟湊の廻船問屋ら多くは江戸にまで呼び出された。第一次抜け荷事件では首謀者と言われた北國屋松蔵ら数十人が江戸のお白州で取り調べを受け、松蔵ら3人が獄中で死亡。第二次事件でも船頭ら8人が牢死し、40人以上が処罰されたという。2度の抜け荷の摘発を受けた長岡藩は「監督不行き届き」として新潟湊を幕府に召し上げられ、新潟湊は幕府直轄の「天領」となる。「新潟上知」である。その上、二回目の抜け荷事件を隠密として摘発した川村修就が、天領となった新潟湊の初代奉行に任命されたのだから「出来レース」の感が強い。ともあれ、初代幕府奉行として着任した川村修就は新潟湊の町人衆が担っていた防風林整備などによるまちづくりを加速するなど、町人衆の活力を活用した。長岡藩の支配を脱し、天領になった影響は大きかった。幕末、「安政の5か国条約」により、新潟湊は開港5港の1つに選ばれ、名実ともに「国際港」になった。「それだけの力と見識を新潟湊の町人衆は持っていた」と言っていい。

それほどの人材を育てた教育機関が「私塾」であり「寺子屋」だった。江戸時代の越後は、ムラも湊も殿様・武士階級ではなく、庶民が躍動していた。その土台を支えていたのが「越後の実学」だった。では、その「越後の実学」は明治維新以降どうなっていくのかーそれを次回に検証したい。

2022年3月7日
新潟青陵学園理事長 篠田 昭