理事長室から 理事長室から

Vol.3

―建学の精神「実学」とは 越後の歴史から考える②―

前回の「理事長室から」では、本学園の建学の精神にある「実学」について江戸時代の越後から考えてみた。今回は、江戸幕府の天領となった新潟湊が明治維新による「廃藩置県」以降どうなっていくのかーその過程で「越後の実学」はどう変化していくのかを追ってみたい。本学園の創始者である下田歌子先生の「実学」と、「越後の実学」はどう交わるのだろうか。

「寺子屋」に執着、実学好きの新潟 ナンバースクール争いでは苦杯

<開港都市・新潟が県都に>
「安政の5か国条約」(1858年)で開港5港の1つとなった新潟に翌年、ロシア船ジギット号やオランダ船バーリー号などが視察に訪れたが、その評価は最低レベルだった。当時の新潟湊は信濃川が運ぶ土砂で水深が浅くなり、大きな船は沖に停泊して艀で荷揚げをする状況だったからだ。肝心の港湾機能が最悪の時期に新潟は開港都市となったのだ。佐渡・夷港を補助港とすることで、ようやく列強諸国の了解を得、新潟港は明治元年(1868年)に開港の日を迎える。しかし、港の機能が低下していたため、新潟が国際港として実績を上げることはなく、せっかく設置された各国の領事館も順次撤退していった。

では、「新潟が開港五港に選ばれた価値はなかったのか」と言えば、そうではない。大変大きな価値があったと思う。五港の1つに選ばれたことで、新潟は廃藩置県の実施により「県庁所在都市」となることができた。(このことには、長岡藩が「武装中立」を掲げながらも戊辰の戦乱に巻き込まれ、「賊軍」の汚名を着せられたことも大きく影響している。とは言え、)越佐に乱立した諸県が次第にまとめられ、今の新潟県が形成されていく中で、新潟は当時最大の人口大県となる新潟県の県庁所在都市になったのだ。日本海側の一つの川湊でしかなかった新潟は、江戸時代の町人衆の努力で「西廻り航路の最大拠点港」としての交易実績を残していなかったら、この展開は考えられなかった。

<「大河津分水一揆」が勃発>
維新政府は県令(多くが公家か西軍の武士出身)を各県庁所在都市に送り込み、地方統治を確実なものにしていく。県都・新潟にも県令が赴任し、「新たな開発」として長年の懸案だった大河津分水掘削に着手した。しかし、越後に潜んでいた東軍の不満分子らが武力による反対運動を展開(大河津分水一揆)、掘削はいったん取りやめとなる。治水に詳しい大熊孝・新大名誉教授は「当時の技術では分水を安定して掘削することができず、無理に掘れば分水路が本流になって、信濃川の形態はまったく変わってしまっただろう」と言うように、この「掘削中止」は技術的には正しかったようだが、この経緯の中で「越後は危険分子の巣窟」の位置づけとなり、その後「自由民権運動の拠点」ともなる。維新政府にとって新潟は「危ないところ」の印象が強かったようだ。

<「遊女のまち・新潟」を危険視>
大河津分水一揆を鎮圧のために任命・派遣された2代目県令・楠本正隆は、文明開化を推し進める開化主義者だった。一揆を鎮めた後、越後の近代化を進め、日本最初の公園となる白山公園を開設したり、堀の浄化や街灯の設置など新潟町の都市整備を進めたりもした。一方では、江戸時代の風習を「陋習(ろうしゅう)」と捉えていた。楠本県令は、「町は不潔で健康を害する。売春や遊芸ばかり盛んで、町民もそれを恥だとは思っていない。『市中心得書』を出すので、それを守るように」などと書いた「教諭文」を新潟町に布告してもいる。当時の新潟町について、郷土史に詳しい元県立がんセンター副院長の蒲原宏さんは「新潟町は人口の1割が遊女だった。維新政府の官僚にすれば、新潟町の生活・風俗が、すこぶる付きの放埓に見えたのでないか」と言う。楠本県令は、新潟湊の「盆踊り」や「湊まつり」について、民衆の危険なエネルギーの発露とみたのか、長く催事禁止にしている。

<寺子屋に人気、就学率はワースト3>
同じように邪道視されたのが越後の実学の拠点「寺子屋」だった。維新政府は学制改革を実施し、藩校中心だった日本の諸地域の多くはその方針を受け入れ、「就学率」を高めることを競い合っていく。しかし、新潟は違っていた。特に新潟町は湊町―商業都市という土地柄を反映してか、読み書き算盤を教える寺子屋への支持が強かった。評判の良い寺子屋には300人以上が通っていたといい、そろばん塾も繁盛していた。新潟町は「寺子屋教育」に誇りを持ち、新たな教育制度への反発が強かった。それが影響して明治20年前後の新潟の就学率は「全国ワースト3」であり、維新政府の官僚たちは新潟に対し、「もっと就学率を挙げるように」と訓令していた。

<「四高争い」で金沢に敗北>
一方で維新政府は明治19(1886)年、高等教育機関として全国に5校の高等中学校(一高などナンバースクール・後の旧制高校)を整備することを決定する。新潟県は、明治20年代初頭まで人口日本一であり、豪農など高額納税者も輩出していた。この実績から、「当然のごとく」ナンバースクールの第四高等中学校(四高)誘致に名乗りを挙げた。しかし、就学率の低さなどを問題視され、「四高」争奪戦で同じ日本海側の金沢に敗れた。当時の教育関係者は「就学率の低いことが響いた」と悔やんでいる。

一高から五高までの設置都市が決まった後も、新潟はナンバースクール誘致の機会を窺っていた。明治32(1899)年、「信越地域にナンバースクールを開設」の情報を得て再び誘致運動を開始。いったん「当確」の情報を得るものの、結果は「岡山に六高を開設」となった。その頃の越後は、明治29年に信濃川の大洪水「横田切れ」(現在の燕市)に見舞われていた。下流域の被害は大きく、メディアのない時代でも蒲原の惨状は「横田口説き」として全国に知られるほどだった。大洪水からの復旧に苦しんでおり、ナンバースクール開設の詰めに影響が出たのかもしれない。

<「裏日本」の呼称広がる>
この頃から明治政府は日本海側について「裏日本」という言葉を多用するようになる。この言葉は当初、太平洋側を「外日本」、日本海側を「内日本」と呼んだ地理学的用語の置き換えであったが、次第に社会的意味を込めて使われるようになっていった。もっとも新潟町にはもう一つ側面があった。明治時代、新潟町は湊の機能が低下し、開港5港の威力を発揮できなかったものの、「女まち・新潟」の名声?は益々高まり、金色夜叉の尾崎紅葉や軍医の森林太郎(後の文豪・鴎外)らが新潟湊の風情・文化を楽しんでいた。森林太郎は軍医として徴兵検査のため水戸から前橋―長野―新発田を訪れることが決まると、目的地でもない新潟町に行けることを喜んで、「新潟に赴くに当たって」との漢詩を書いているほどだ。

<下田歌子先生の来訪>
当学園の創始者、下田歌子女史が新潟を訪れたのは明治32(1899)年。まさに新潟が横田切れに苦しみながら、ナンバースクール争いを展開していた時期であった。この時代背景を考えると、下田先生がいち早く新潟を訪問し、帝国婦人協会新潟支会の開設を要請したことは偶然ではない気がする。翌年、新潟支会による「裁縫講習所(同年、新潟女子工芸学校と改称)」の開設は、「文明開化の時代の要請に応えての女性の独立、自尊を勝ち得るための実学教育の理念」(関昭一元理事長の言葉)を実現するためであった。下田先生の気持ちの中に、「『遊女のまち・新潟』は今、未曾有の大洪水の後遺症に苦しんでいる。新潟こそ、女子の実学教育の実践が最も必要であり、最適地だ」との判断があったのではないだろうか。

<「武士に負けた」との嘆き節> 
新潟女子工芸学校が開設された翌明治34(1901)年、「七高」が鹿児島に開設される。隣県の熊本に「五高」があるだけに地域バランスを大きく欠く明治政府の決定だった。「鹿児島にも先を越された新潟は『武士に負けた』『西軍に負けた』と憤慨したが、どうしようもなかった。新潟の20世紀の幕開けは暗かった」と井上慶隆・元新大教授は解説する。そんな中で、「新潟女子工芸学校」の開学は、ひときわ明るい灯だったであろう。

<実学の「医学専門学校」を誘致>
新潟はその後、明治43(1910)年に初の高等教育機関として新潟医学専門学校を誘致する。日本医史学会理事長も務めた前述の蒲原宏さんは、「新潟は志を立てて学問するナンバースクールよりも、実学の医学専門学校を求めたのではないか」と推し量る。ただ、新潟はナンバースクールを諦めたわけではなかった。明治41(1908)年に「八高」校が名古屋に開設された後も、新潟はナンバースクール誘致に動いてはいく。

そして大正8(1919)年、ついに官立新潟高等学校(旧制新潟高校)が開設された。同時に長野県松本など3校が官立高等学校として認められたが、この4校に「ナンバー」がつくことはなかった。「九高を新潟と長野で争ったわけだが、結果は痛み分け。『九・五高的決着』と言われた」と、長野県出身で新潟大学教授を務めた故・古厩忠夫さん(「裏日本」の著者)は述懐していた。同じ旧制高校でもこれ以降は地名を冠した「ネームスクール」となり、各地に次々とネームスクールが誕生することになる。新潟では今も旧制新潟高校出身者が母校を「九高」と呼ぶことがあるそうだ。そこにはナンバースクールへの憧れと、「新潟がワン・オブ・ゼムに位置付けられた」との自嘲めいた響きがある。しかし、ナンバースクール争いに敗れたことを嘆くよりは、「実学を重んじ、実績を上げてきた越後~新潟」を誇りにする方がよいと思うのは私だけだろうか。

<越後の「実学好き」は筋金入り>
江戸時代からの流れを概観すると、越後の「実学好き」は筋金入りであり、また、越後の実学は多くの成果を民衆にもたらしていた。「重く、輝かしい伝統をしっかりと受け継いでいるものこそ、我が新潟青陵学園である」―このことを「青陵ブランドを改めて創出する際の原点」として捉えていくべきではないかと考え、記者時代の取材原稿を再編成してみた。

2022年3月10日
新潟青陵学園理事長 篠田 昭